昭和46年04月25日 朝の御理解



 御理解 第42節
 「これ程信心するのに、どうしてこういうことが出来るであろうかと思えば、信心はもう止まっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。」

 未だ信心が足りぬのじゃと思い一心に信心して行けばと言う事。ここのところが大事な所だと思います。ここの辺のところを焦点としてお話しをさせて頂きます。未だ、信心が足らぬのじゃと思うて、だからどのような風に足りぬのか。どのような風に一心に信心を進めて行ったら良いであろうか。今迄時々しかお参りしよらなかったから、毎日一つお参りをしよう、折角お参りをするなら朝早起きして、朝参りをしようと。
 毎日朝参りはしておったから、もう一つ工夫して夜の御祈念でもお参りしようかと言う様に、そういう信心をそこから進めて行くという。そう言う事も私は大事だと思うけども、それは本当のこれは足りんという信心ではない。お参りの仕方が足りん、修行の仕方が足りんと、勿論ここで修行というのは表行、只そういう信心ではない。二代金光様の御言葉の中に「一心と信心を進めるというとすぐに氏子が拝み出しますわい」と仰った。一心の信心を進めようというと、すぐに信者が拝み出しますわい、氏子が拝み出す。
 成程拝むことも信心ですから大事です。祈念といったことも大事です。けれどもすぐにその拝み出すと言う事は、御祈念ばかりいくらしても駄目だぞと。如何に逆たんぼうって拝み出したって駄目だぞと言う様な内容がその中にはあるですね。これはしかし絶対必要なんです。熱心に拝むと十分拝んだより三十分拝んだが良いと。繰り返し繰り返し拝みよると、それこそ時間の経つのもわからん位に、一時間も二時間も御祈念しとることもあります。そう願わなければ、御祈念でもしておらなければおられない。
 それが段々身に付いて来て、御祈念が簡単なことでなくなって、心からの御祈念が出来るようになる。それなら「間違いのない信心の進め方、間違いのない一心に信心をして行けば」と仰せられる。「一心にして行けばそこからおかげが受けられる」と仰る。間違いのない一心とはどう言う事であろうか。昨夜は北野の共励会でした。ここからも久富先生、光橋先生が、福岡からも秋永先生が、兄弟でおかげを頂いておる。思い掛けない共励会が出来た模様です。
 帰って参りましてから、あそこで皆お茶でも頂きながら、色々信心の四方八方話をしている時でした。青年会長の秋永嘉郎さんがこう言う事を言うのです。「親先生、私共の商売人が果たして欲が取れるでしょうか」と。「我情我欲を放れよと仰るが、それは我欲が取れることが私どもで出来るでしょうか」と質問でした。私もそれに答えることが出来ませんでした。やはり難しいことですからね。それだけ商売人というのはです、やはりいつも算盤を持つものですから。
 勿論算盤を抜きにした商売が出来るようになると大したものですが、やはり算盤を持ちます。そういうところでしょう。いつになったら欲がとれるであろうと思うのですね。それで私は、そうやなあ、先日から長女が夫婦で御大祭に参っとりました。昨日帰らして貰いましてね。一昨日私が一寸手がすきましたから、今久留米で、文化センターで、坂本繁二郎さんの画展があっている。遺品展といったものがあっている。それを一ぺん見てみたいなあと思っておりましたから、皆を連れましてから、見に参りました。で、私が感じたことなどを話さして貰いました。
 やはり名人ともなると違っておりますね。少年の頃、まあ十五歳で書かれたという、一番始めにというのですが、矢張り天才ですね。その上に精進に精進を重ねて、それは毛筆で手紙なんか沢山出ておりましたが。それはもう見事な字を書いておられますね。段々見て参ります内に、皆さんも有名ですから御承知でしょうが、あの馬の絵を書かれるようになった時代から、いわゆる何というのですか。馬の写生といったものでなくて、馬の心を書かれるというような絵ですね。
 その時分の、馬や何やらわからん感じの絵ですけど、やはり馬は馬だという訳です。言わば、欲が無くなって見えられた頃からの絵とでも申しましょうかね。それは本当に私どものように、わからない者でも心を惹かれる。絵の前に立って暫く動きたくないような絵が出ておりました。ですからあんな絵では、自分の絵というものに対し、自信が段々持てれるようになった。世間でもそれを高く評価するようになった。私はそう言う様な所から、段々欲が無くなって見えられたのではなかろうかと。
 段々信心さして貰い、おかげを頂いて、商売も、言うなら支配人任せと言う様なおかげを頂けれるようにならなければ、本当の欲ははずれんのじゃなかろうか。それでも信心が無いと、その辺のところは、それこそ一億の金が貯まれば二億にしたい。二億の金が貯まれば、三億の金が貯めたい。限りない欲がつくでしょうけれども、そこは信心させて頂いとるから、まあまあ商売の上でもまあ使用人に任せたり、息子に任せたら、あまり算盤を持たんで、あまり我情我欲を言わんで済むようになるのじゃないだろうか。
 坂本繁二郎さんの場合でも、やはり自分が書いた絵に自信が持てるようになり、しかも売ろうと思えばいつでも売れる。それこそ引き手あまたであるから、世間でも高く評価するようになった頃から大体欲が無くなられたのではなかろうかという話をしたんです。それがあながち、違ってるとばかりには思われない。私はそのことを皆が帰りました後、考えさして貰った。御神前に出て御祈念をさして頂きながら、そのことを又考えておった。「我情我欲をはなれて真の道をひらく」と仰せられた。
 「わが身は神徳の中に生かされてある」本当の意味において、神様の御徳の中に生かされてあるんだなとわからせて頂くということは、やはりこの我情が我欲がなくならなければ、それを実感することは出来ない。お徳の中にあっても、それをおかげと感じきらない。おかげの中にあっても、それをおかげをおかげと感じ切らんのです。だから喜びが勿論湧かん。おかげをおかげと感じれるようになり、喜びが尽きぬ喜びが頂けるようになり、そこから尽きぬおかげが伴うて来るようになる。
 だからやはりどうしてもいくら商売人であろうが、何であろうが、我情我欲を外して行く稽古をしなければならん。そこでまあ私自身の体験を嘉郎さんが折角質問しているのに対して、私自身の信心を話して上げれば良かったと後で思うた。だから今朝からその話を聞いて頂くわけなんですけど、始めの間は、自分の思う様になる事を願い、やはり是が商売人であるならば、誰よりもどこよりも儲からして頂く事を願う。
 自分の願い自分の思いが、例えば成就することを以て、信心だと思うておった時代から、段々信心が、それが間違いと言う事ではないけれども、そこから段々信心が進んで行く。いわゆる信心が段々分って行く。是はまだ信心が足らんのじゃと思い、一心に信心して行くと言う事は、自分のこの我情我欲に取り組んで行く姿勢が、まだ足りんのだと思うという思い方が一番間違いがない。そこに取り組む。取り組んでも中々難しい。
 昨日私は午後の奉仕の時に、久留米の古賀さんが受け持っておりますから「来月の信心の焦点を書いておって下さい」とこう言う。それで私は昨日、それを神様にお願いして書かして頂いて、書き終わったところへ、久留米の佐田さん達が参って見えた。「真心とは神様に喜ばれる心だ」というふうに、これは来月の焦点。「真心とは神様に喜ばれる心だ」と、それをここにお参りされて見えてから。
 「先生、いよいよ宅祭も近づいて参りました。親先生に喜んで頂くお祭を仕えさして頂きとうございますから、どうぞお粗末、御無礼のないように」というお願いであった。
 「だから佐田さんそれだもんね、それなんですよ信心とは、今私もこんなもの書いたとこなんだけれども」信心とは神様に喜んで頂く心なんだ。してみるとその神様というのは、お道の信心させて頂く者の対照になる神様というのは、やはり天地の親神様であり、生神金光大神である。
 その金光大神の手代わりをして下さる親先生と言う事になってくる。してみると親先生に喜んで頂くと言う事はそのまま神様に喜んで頂くと言う事になる。いやそういう真心とはと言う様な所に焦点をおいて考える時、神様やら金光大神やらは姿そのものは知らないのであり、わからないのである。神様は喜んで下さったか、喜んで下さらないかも分らんのである。一心こめても。ところが親先生ならば、そこに喜ぶ様子も見えるし、親先生の喜んで下さることによって自分自身も有難い。
 だから親先生が喜んで下さることに精進することは、そのまま神様に喜んで頂くのと同じであるから、それは真心である。「今私はこういうものを書かして頂いておるところに、今あなたがお届けされる、親先生に喜んで頂くというお祭を仕えたいと、そのことですよ」と言うて話したことです。昨日はお母さんを先頭に弟嫁さん、奥さんと孫達が二人ついて来ておられる。ああ有難いね、お母さんがお参りをされる、それに丁度来合わせた弟嫁と親方嫁御とお参りしましょうと。
 それに孫達も私達もついて来ると言うてお参りをする。こういう雰囲気が神様が一番喜んで下さる。してみると、今日はあなた方は真心の信心というか、真心のお参りが出来たことになる。神様が喜んで下さる。ですから幾ら何というても親先生じゃけん先生の好きなものを、あげるものを買うて行ったら、親先生は好きなものはあげなものが好きじゃけんと言うた。食べるものを持って行ってやったら、これはそれは腹かきはせんですよ。やはり嬉しいけれども。
 それは嬉しいのであって、本当の喜びじやない、本当の喜びというものは言わば私の命であるところの、いや命以上であるところの信心、その信心を本当にわかろうと努めて下さること。そしてわかっておかげを頂きましたとお礼が申し上げられた時、これは私の喜びというなら、それは私の一番喜びだと言えると思います。日頃の信心をこの様にもの言わして、このようなお祭が出来た。信心は何と言うても根本です。もう私が一番思うことはですね、御祈念の後なんかにお参りしてきて、御理解を頂く。
 真剣に頂いて下さるのを見ると、それだけで私は嬉しいです。けれども御理解頂きかけといて、ここさへツーッと出てきて、お届けをする人がある。それだけ時間が早う帰られるというところでしょう。お届けよりか、拝むことよりか、早う御理解を頂いてから後で良かじゃんのと言うごとある。信心を頂きたい信心を頂きたいと言うけれども、そんなことであんた信心を頂きよる訳じゃないじゃないか。頂かん人すらある。折角参ってきてしっかり拝んで行かんの。念を入れてからと言いたい人がある。
 ポンポンと手を打ってから、今日一日のお参りの帳面消しのごとある人がある。そういう人が例えば、如何に私の好きなものを持ってきて下さったところで、私が本当に喜ぶはずがない。私が喜ぶというのは、私の命をと思われる程しの信心を大事にして下さる以外ない。だからまあ、手っ取り早うここんところ言うなら、一心に信心をして行けば、そこからおかげが受けられるということは、もう一段親先生の心が本当に分かって、親先生の心に添い奉る信心にならねばいけん。
 それでも先生が喜ばんなら、まだ足りん。まだどこか間違うとるじゃろうとなぜ思わんだろうか。考えんだろうかと私は思う。それがそのままお道の信心では、神様に喜んで頂く心に一番つながるのですから。ですから「金光大神」も言うことはいらん。「天地金乃神様」も言うことはいらん。「親先生」と言えばもうおかげ頂いとるじゃろうが。親先生というのは大坪総一郎と言うのじゃない、言うならば神様に許された御名。ある意味で言うならば御神格なんだ。
その親先生が金光大神に没入してある。天地の親神様に没入しておる。そういう信心の姿勢をわたしはいよいよ確立していきたい、これで良いとは一つも思わない。けれどもそこんところを一段と深く広く進めて行きたいと思う。果たして親先生の、言うならば痒いところに手の届くような信心をさして貰おうと願いよるであろうか。お道の信心は、私はここんところに帰依すると思うんですよね。お道の信心は、いやお道の信心はというのではない、四十二節のここんところ。
 そして親先生の信心を頂こうとすると、どうゆうことになるかというと、私が本気で我情我欲から解脱して行こうとしている、我情我欲から放れようと精進しておる。そこでですね、ここではどう言う事になるかというと、そこからおかげが頂けるという教えは、「そこからおかげが受けられる」とこう仰る。そこからおかげが受けられると言う事に確信が出来てくるのですよ。四神様のまたの教えに、「氏子が神の用を足せば、氏子の用は神が足してやる」と仰せられる。
 そういう体験は皆さんもなさっているであろう。成程自分の我情我欲とかがです、言うことはいらん、親先生が仰るように、神様に向こうて行けば、成程おかげが受けられるという。例えて言うと、今日は忙しい、忙しいけれども親先生は御用があるとおっしゃる。だからその御用をさして頂きよると、家では私が一人どもよけい居ったことじゃない程しのおかげを受けておりましたと。この度の御本部参拝でも、そういうおかげを頂いた方が沢山ありましたね。
 もう心配しよりましたけど、やはり心配はいりませんでした。帰ったらこういうおかげ頂いとりました。佐田さんなんか夫婦で忙しいのに参って来ておられましたね、もう行く際まで大変な忙しさであった。これを放って普通では行けない感じであった。ところがお参りをされた。その明くる日の、お店の方の状態というものは、ピタッとまるきり休日のごとあった。さあ帰って見えてからの、その朝からの忙しさは盆正月の売り上げと変らん位であったと言うておられました。
 そういう体験をですね、積んだ上にも積んでいくというおかげがです、成程、我情は言うことはいらん、我欲は言う事はいらんなと言う事がいよいよ強うなっていく訳です。嘉郎さんそう言う事だね。私があとでここば言うとじゃったと思うたたいね。だから嘉郎さん自身もやはりその体験をして行きよるけれども、まだまだ体験の積みようが足りんから、まだ我情も言わにゃならん、我欲が言わにゃならんことになったくる。
 日田の麻生さんなんか、私がどうでもお参りするように旅費まで払い込んであるから言ったけど、まだそこは信心が浅いから仕方がない。そげん先生言いなさるけど、とても私が居らにゃ絶対出来んことがあるからというて思われたんでしょう、私は汽車に乗ってから汽車が行くまで、もう見えはせんかと待っておったけど、ついに見えられなかった。帰ってからのお話に、「先生、あげん仰っとったが、参られば参り済ましとるとであった。私がおらんでも良かった」と言う様な事を言うておられます。
 だからこの次には失敗せんで済む様な風に、なってこなければいけん。しかもそれがね五へん、十ぺん位のことじゃない。我情というのは自分の想いですよ、自分がああしたいこうしたいという思いなんです。ああしたいこうしたいと思うとる間は不足不満が出ます。何故って決してその通りにならんからです。自分の思うようにならんともう不足を言うようになってくる。そこで我情を取らなければ、我が身は神徳の中に生かされている、喜びはそれなんです。
 我欲というと、まあどの辺まで我欲というのか、只の欲と言うのかわからんけど。嘉郎さん質問のところは只商売人が、私どもでも我欲が取れるじゃろうかとこう言う、けれどもですね、二日間なら二日間、スパッと欲をはなし、我情をはなし、欲をはなして神様に打ち向こうて行けばです。しかも神様喜んで下さるであろうという心一杯でです。真心を以てお参りする限り、ああ神様ちゃ不思議な方じゃなあ。それこそまあ休日のようにお店の方が自分が居らん時は閑散であったけれども。
 さあ帰って参りましたら、盆正月のような売り上げでしたと言う様なおかげが頂けて、成程神様は間違いがないなあという体験を積み上げて行くところにです、我情を言う事はいらんな、我欲をいうことはいらんなと体験させられて行くのですから、私はこれは誰だってそこに我情も我欲も取れていくおかげが頂けると思う。この体験を積んでさえ行けば。これはまだ信心が足りんのじゃという信心とはです。
 真心とは神様に喜んで頂く心とはと、明けても暮れても思い続けると言う事なのですけど、なら神様が一番喜んで下さると言う事はです、私どもが我情我欲を放さして頂いて、日々が神徳の中に生かされてあるんだなあ。あれもおかげであった、これもおかげであったと分る様になると言う事を、神様の一番の願いであり、神様の一番の喜びはそれなのである。それが真心。
 一心に信心して行けばそこからおかげが受けられる。私どもはそこんところを繰り返し繰り返し稽古させて頂く内には、これは坂本繁二郎さんならずとも、いわゆる無欲坦々、そこから限りない、言うならばいらんというても、名誉も地位も財宝も、人間の幸せになる一切のものがそこに集まってくるおかげが受けられるだろう。それですら、坂本さんの場合なんかもういらんといわれる。文化勲章を受けられた、最後にまた何か勲章を受けられる時に、もういらんと言わっしゃった。
 名誉なことですけどね、その名誉欲まで無くなって仕舞われた。もう欲と名のつくものはどういう欲だってこれは神様に嫌われるものです。ですから、なら神様に喜ばれるという欲はやはりそういう小欲から大欲に飛躍した時です。これはまだ力も力量もないのに世界の平和を願ったり、世界の氏子の立ち行きを願ったり、世界中の御霊の安らぎを願ったり、これはまあ私のこと、力もないのに願っておる。
 だからまだ大したこと願いになってないけれども、そういう稽古を本気でして、それが本当に神様に喜んで頂かれるようにならして頂くことの信心を願っておって、そうありたいと、どうでも思うておることはこれは大欲ですね。大きな欲です。だから小欲をすてて大欲に生きぬけと。だからそのためには修行もいとわないという、勿論裏付けがなからねばならんことは事実。
今日はその四十二節のところですね。これ程信心するのにまだおかげが受けられない時、そういう神様に対する不平不足の時には確かに信心は止まっておる時と思わしてもらって、これは未だ信心が足りぬからじゃと思って一生懸命拝み出すと言った様な事ではなくて、一生懸命お参りをすると言う事だけではなくて、勿論大事けれどもそれよりかもっともっとその焦点にあるところ、大事なところをいよいよ自分自身の我情我欲に、それに取り組んで、いわゆる真心をいよいよ追求して行く。
 神様に喜んで頂く生き方、思い方と言った様なものを焦点にしての信心。我情我欲を、例えば私どもでも外して行けるだろうかと外せる。私だって絶対必ず外せる。そういう確信を以て我情我欲を外した時の、真心を以て外した時の、神様の働きを身に付けさせて貰い。それを体験としてそういう心の状態の、裏付けともなるものを、積み上げた上にも積み上げて行く、信心体験を持って行けば、これは私でも我情我欲が取れて行くことになるなと、希望が湧いて来りゃせんかと思うのです。
 只神様に取組む。一心の信心が足りんとか、参り方が足りんとか、拝み方が足りんとかで終わる人が有ります。自分のこういう穢い我情、こういうきたない欲を外させて貰う。そういう例を御本部参拝の例にとりました。これは御本部参拝のことだけじゃありません。一事が万事、ですから二つの問題が、右左迷うような時には、どちらを取ったら神様が喜んで下さるかと言う事を取らせて頂く稽古をせなければいけん。
 そこから、その後に成程と分からせて貰う体験が伴うて来るのですから、そこからのおかげであるならば、「そこからおかげが受けられる」と仰る。そこからのおかげが、本当の意味のおかげ。信心も出来んのにどうぞどうぞとするおかげは、それは御利益に違いない、おかげに違いないけれども、それは安心につながるおかげとも申しましょうか、わが身は神徳の中に生かされてある喜びを、謳歌して行くことのための信心ではないことを知らなければいけませんですね。
   どうぞ